弓張り月

『逢いたいなどと、願ってはならぬのに…』

夜明け間近に昇ってきた細い月を見つめながら、幸村は胸元をきゅっと掴んだ。
眠れない夜は幾度か過ごしたことがある。しかしそれは大抵、戦の後。
精神が昂ぶったまま、平静を取り戻せずに朝を迎えたことがあった。
けれど、今、幸村を苛むものはそれとはまったく違う。
昂ぶりなどとは寧ろ逆で、幸村の胸はただ一人の為に切なさを募らせていた。
細い弓張り月。思い浮かぶはただ一人。
「伊達、政宗…」
名前を呟くだけで胸の痛みが増し、幸村は目を伏せた。



血煙を切り裂いて、目の前に現れた蒼い雷。
好敵手になれると、そう、思っていたのに。

『欲しいのはアンタの首なんかじゃねえ。
 ―――アンタの全てだ』

数え切れぬほど会い見え、切り結んだその時。
突然告げられた言葉を幸村はすぐに理解できなかった。
眼光鋭い隻眼はまっすぐに幸村を見据えていた。
今まで向けられたことのない感情を湛えたその瞳に思わず怯んだ。
悟られぬように、地を蹴り双槍を振り翳す。
しかし幸村の動揺を孕んだままの刃はいとも容易く政宗の六爪に阻まれた。
「俺はアンタを手に入れるぜ………真田、幸村」
一瞬の隙をついて伸びてきた腕に囚われ、気づいたときには遅かった。

「ん…っ!?」
頤を掴まれ合わせられた唇は、思いがけず温かかった。
咄嗟に噛み付き、政宗が怯んだとみると体を突き放し離れた。…血の味が気持ち悪かった。
「………ouch!…やってくれんじゃねえか…」
「い、戦の最中に何を…!」
ぐい、と手荒に唇を拭い目の前で不敵に嗤う男を睨み付けるが、意にも介さない男は不遜に歩み寄る。
「言っただろ、アンタが欲しいって。その体もheartもいつか必ず貰いに行くぜ。
………覚悟しときな」



そんな事有り得ぬとあの時否定できなかったのは、すでに心囚われていたからか…。
告げられた言葉通り、政宗は幾度も幸村の元を訪れた。
戦場で見せる貌とはまったく違う貌。
揺らぎそうになる心を、いつかまた敵として顔を合わせることになる、だから…と必死で押し留め、冷たくした。
その度に心のどこかが痛むのを隠しながら。

その政宗の訪れがふつりと耐えたのがもうふた月も前のこと。
頻繁に届けられていた文でさえ届かなくなった。
初めのうちは佐助に清々した、などと笑って話せていたのに。
日を追うにつれて幸村は自分でも気付かぬうちに塞いでいたのか、周りの者によく心配された。
そんな日が続いて、幸村がとうとう自覚したのは些細な出来事だった。

遠くから響く蹄の音に、幸村は知らず濡れ縁へと駆け出していた。
いつも政宗が唐突に訪れるその場所へと。
けれど幸村が思い描いた姿はその場になく、使いの者が信玄への客人を案内する声が届いたのみ。

幸村は思わず呆然とした。
いつの間に自分の中で政宗の存在がこんなにも大きくなってしまったのか。
―――逢いたいと、願ってしまうほどに。



昇ってきた三日月に彼の人の姿を思い描けば、胸が痛み思わず目の奥が鈍く痛んだ。
こんな願い、叶わぬのに…。
もうきっと某のことなど忘れてしまったのだ。だから忘れよう。
そう思っても逆に切なさは募るばかりで、幸村は頭をふった。
月が不安げに揺らぐ様が自分のようだと、涙も流れるままに見上げていた。
「……政宗、殿…」

「泣いてんのか…honey?」

突然耳に届いた声は、それこそ会いたい気持ちが募りすぎた幻聴かと幸村は疑った。
「そんな筈、あるわけが…」
「つれねぇな、折角会いに来てやったのに無視か?」
枯枝が踏み締められる音とともに投げかけられた声にようやく顔をそちらへ向ければ、見慣れた不遜な笑みを浮かべて闇の中から現れる姿。
「………ま、さむね…どの…?」
「illusionでも見たような顔だな、幸村…」
ゆっくりと歩み寄ってくる姿を本当に幻影でも見ているような瞳で幸村は見つめた。
「………寂しかったのか?」
冷たい指先が眦から零れた涙を拭い去ると、ようやく幸村は我に返った。
「ど、どうして…此処におられるのです…?」
「Ah?…アンタに会いに来たに決まってるだろうが。……泣いてるとは、思わなかったがな」
すとんと幸村の隣に腰を下ろすと政宗はぐいと幸村の肩を掴み引き寄せた。
「…な…っ!?…は、離してくだされ、政宗殿…!」
「離さねえよ」
「な、何ゆえ…!」
突然の抱擁にもがく幸村にかまわず、政宗は深く抱きこんだ。
「……sorry…アンタに、寂しい想いさせちまったな…」
耳元で囁かれた言葉に、幸村は体を跳ねさせ身じろぎするのをやめた。
「もっと早く来たかったんだがな…。執務やら小競り合いやらに巻き込まれてな…」
「…………もう…」
「…ん…?」
「もう、某のことなどお忘れになられて…二度と、来られぬのだと…」
「そんなことあるかよ…毎日だってアンタに会いたかったんだぜ?」
頤を持ち上げられるままに、幸村は顔を上げる。
再びはらはらと流れ落ちる涙に政宗は唇を寄せた。
幸村は目を伏せ、それをおとなしく受け入れた。
唇が頬を滑り、やがて軽く唇に触れるとゆっくりと幸村は瞼を持ち上げ政宗を見つめる。
「…アンタも、逢いたいと思ってくれたんだろ、幸村?」
隻眼が眇められ、優しげな表情で幸村を見やり。
幸村はその問いに身を寄せることで答えた。

―――欠けた月はゆっくりと満ちていく。



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